財団法人麗澤海外開発協会(RODA)
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■ レイタク・カンバイ農場設立まで
 

 麗澤大学中国語学科教授・奥平定世氏は、中国研究者として中国と東南アジアの言語と民族に関する研究のために、たびたび東南アジア各地を訪ね、その中でも特にラオスに興味を持ちました。そして1959年からラオスでの調査を開始、ラオスのビエンチャン市内で病院を開業されていた小川蔵太医師との出会いから、ビエンチャン商工会議所会頭のカンバイ・ピラパンデ氏を紹介されました。カンバイ氏はビエンチャン市内で農業機械の代理店や製材所、農場などを手広く経営されており、ラオスの経済的独立を図るためには、これらの農場経営について日本の技術協力が必要なことを奥平氏に強く訴えました。

 奥平氏はそれに応えるべく、帰国後、ラオスにおける開発援助の同志を募りました。それは1964年、当協会の設立以前のことでした。そして、奥平氏の献身的な働きかけにより、ビエンチャン市内から北西25キロの地に、レイタク・カンバイ農場が設立されました。

 

 

■ 初めのころの農場の様子
 

 1964年6月に、当時の財団法人道徳科学研究所の廣池千太郎次長、同研究所の長谷虎治評議員が現地を視察し、同年11月、学校法人廣池学園から池田信輔氏・杉本滋氏の両名がレイタク・カンバイ農場に派遣されました。

 当時、農場の総面積は約100ha、二筋の湿地帯を挟む丘陵地で、この湿地帯は近辺では珍しく、ラオスの年間の半分を占める乾季にも絶えず水が流れていました。開拓面積は13haで、そこにはパイナップルを主にしてココヤシ、マンゴー、ライチなどの熱帯果樹が植えられていました。近くの村落までは約3km離れたジャングルの側に位置し、農場内には電気・ガス・水道・電話などのいわゆるライフラインといわれるものは全くありませんでした。

 
■ 農場で育てたもの
 

 そのような環境の中で、池田氏と杉本氏は、1968年までの4年間、約10名の現地スタッフとともに、農場開拓の業務を行いました。まず、湿地帯の一部に排水を行って野菜畑を造成、各種野菜の栽培を試みました。中でも濃紫色の日本ナスは市場でも珍しがられ、栽培・販売ともに成功しました。農場内の2つの池では、鯉、雷魚、鯰などの養殖も行いました。

 

 

 

■ 蚕事業
 

 また、手付かずの丘陵地を開拓し、5haの桑園を造成しました。これにともない、蚕室二棟を建築し、養蚕事業に着手しました。蚕室の建築にあたり、害虫の侵入を防ぐために周囲に水溝を巡らしたり、網を巡らすなど、さまざまな工夫を取り入れ、従来の蚕室を大幅に改善しました。

  もともとラオスでは、古くから養蚕業が行われておりましたが、蚕の品種・品質ともに貧弱であり、また製糸作業も座繰りを使用した手作業が行われていました。この養蚕業の近代化がカンバイ氏の要望課題の一つでもありました。また、現地の人々がより豊かな生活を送れることを目的として、将来的にこの養蚕業・製糸業を海外への輸出事業として発展できるよう、当開発事業の主軸として力を入れていくようになりました。

 

 

 

■ 派遣
 

  池田氏と杉本氏の派遣以降も、当協会の設立にともない、廣池学園、麗澤高校から若い人材がラオスへと派遣されました。1969年には、淡島成高氏が現地責任者としてレイタク・カンバイ農場に派遣されました。また同年、千葉県蚕業試験農場においては今井収氏、青木丈幸氏に対する養蚕業の研修が始まり、研修終了後、1970年に両氏は海外開発要員として現地へ派遣されました。そして、1973年に清水芳洋氏が、千葉県の農業試験場での研修終了後、園芸担当員として現地に派遣されました。その後、1974年に畜産専門家として山口明氏が現地へ派遣されました。このように、レイタク・カンバイ農場での開発事業の活動体制が整うに従い、池田氏と杉本氏が着手した養蚕事業はさらに拡大されました。また、新しい蚕室の建設、堆肥舎、消毒用プール、給水塔などが建設され、農場内の設備も整いました。

 

 

 

■ 事業
 

【 栽桑事業 】

  栽桑事業は今井氏が担当し、当初13haある農場で1haしかなかった桑畑を4haまでに拡大し、そこで桑苗の栽培が行われました。1haあたりの桑畑には約2,500本の桑苗が植えられ、収桑量は約10tでした。農場が湿地帯に位置していたこともあり、適度な水分が確保できたことと、腐葉土が多くあったため、桑苗栽培の事業は成功しました。

【 養蚕事業 】

  養蚕事業は青木氏が担当し、蚕種の品質改良が行われました。1箱に約18,000頭の蚕を飼育、1箱から約20kgの収繭量を目標とし、ラオスの在来種、日本種、2種の交配種など、さまざまな蚕種を使用した試験的な養蚕事業が行われました。養蚕事業の成功にともない、乾繭技術・製糸技術を学ぶために、青木氏は日本国内でさまざまな技術研修を受け、ラオスへ日本の優れた技術を導入しました。

【 園芸事業 】

 園芸事業は、清水氏を中心に行われました。ラオスの農業人口は全人口の85%で、食糧自給率は50%という状態でした。残りの50%はタイなどからの輸入品でまかなっていました。乾季と雨季という気候から、野菜を栽培できる時期は年間の約半分。品質もタイのものに劣っていました。これらの問題を解決するために、米をはじめとしてさまざまな野菜の試験栽培が行われました。また、山口氏は養蚕事業一般から、堆肥作り、土地の改良などの事業にあたりました。

 

 

 

■ ラオスにおける開発事業の中止
 

 当時のラオスは王制で、アメリカから援助を受ける自由主義社会でした。しかし、1972年ころからパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)の勢力が強くなり、1975年にラオスの王制が廃止、人民民主共和国が樹立されました。自由主義社会から社会主義社会へと変わり、ラオス政府が西側諸国の援助を拒否し、経済にも勢いがなくなり、治安も不安定になっていきました。レイタク・カンバイ農場の現地スタッフの中からもラオス政府に徴兵される者がありました。また、ガソリン、食料品、日用品などが不足し、外出禁止令が発令されるなど、現地での活動が制限されることになりました。こうしたラオス国内の情勢悪化にともない、ラオス国内の状況を当協会に説明するため、派遣員が相次いで帰国。1976年に開催された当協会の理事会・評議員会で、ラオス養蚕開発事業の完全撤収が決定されました。レイタク・カンバイ農場の管理、運営をすべてカンバイ氏に引き渡し、事業撤収業務を終了した青木氏が1977年に帰国、ラオス養蚕開発事業は中止されました。

 

 


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